石の歴史に包まれて
マドゥライに行きインド象に頭撫でられて、そのあと湖の上に浮かぶ寺院を見にいきましたが、残念なことに時期的に水が無いようです。インドの子供たちが、クリケットしていました(笑)。
次にマドラス(チェンナイ)を経てマハバリープラムに移動しました。
この場所も結構好きなところです。手で動かす観覧車があり子供達が載っていました。楽しそう。
この近くで朝屋台があり、朝食にイドリーという蒸しパンのカレーを食べました。この蒸しパンは、インド旅で食べた主食の中で1番美味かったです。ふわふわの食感とカレーがうまく絡んで絶妙でした。
石の彫刻やバターボールとかの世界遺産も見れて良かったです。遺跡関連としてもすごく好きな感じで、時代を経ている石の彫刻の丸みが柔らかい感じでステキでした。
あと、そういえば珍しくクリスチャンの人がやっているレストランがあって、肉カレーを食べました。
蟹カレーもすごく美味しかった。
この町は食ってばかりの思い出があります(笑)。とにかく飯が美味かったなぁ。
日本人で現地の人と結婚した方とも話しました。インドのお嫁さんをもらった日本人男性です。何話したかあんまり覚えてませんが、なんか流れ的にそうなったようなことを話していました。
ホテルの従業員の人たちと結構仲良くなったので、すごく楽しく過ごせました。
この頃になると完全に現地に溶け込んでいました。
まさに溶けていく感覚で、完全に慣れてきてだんだん帰りたくない気持ちを持ち始めた頃です。深い石の歴史に包まれていくような感じでした。
この地に長居しても良かったのですが、沈没(旅人用語で現地に慣れてその場所に居続けること)したくなかったので次の土地へと移動しました。
旅を長く続ける事は、慣れてくると簡単です。
でも、新たな土地に移動していく事で次の景色が見え、新たな体験をすることができます。
常に何か新しいことを探していきたいと感じていました。
インドの孤児院へ
インド最南端の町カーニャクマリの岬でボーと海を眺めてました。
とうとうここまで来たかと感慨にふけっていると初老のインドの老人に
老人「お前のカーストはなんだ?」
私「え!?」
老人「・・・・」
私「カーストはないです。」
というと、うなずきながら去って行きました。
しばらくそのまま、ボーとしていると青年たちが近ずいてきて話しかけられました。
何を話しかけられるのかな?と思っていると
青年「近くに私たちがいる孤児院があるので来ませんか?」
と言われました。
旅勘から相変わらず問題ないと判断し、すぐに私はついて行きました。
下の写真がその孤児院です。
ストリートチュルドレンは、ほとんどの大都市にはいるのでこのような孤児院はインドには数多くあるのかもしれません。この孤児院は、個人で2人の老夫婦が運営されていました。小額の寄付と持ち物を少し渡しました。料理の準備をしている時に、何人か学校に行っている子供たちが帰ってきました。そのあと、食事を少し一緒にいただきました。
インドで時々見かけたと思いますが、部屋の入り口の前あたりに下の写真のような模様が描いてありました。魔除けとかでしょうか?
みんな屈託のない笑顔でよく笑う良い子たちでした。日本の旅行者が来るのが珍しいのかみんなで一緒に笑いながらはしゃいでいました。
必ずこういう時ものすごくはしゃぐ子が何人かいますが、水色の服着た子はすごく騒いでいました(笑)。紫の子も写真を撮っていたら顔をカメラに近ずけてきました。その時のピンボケした写真が今でも残っています。そう言えば、子供たちと腕相撲もしました。
みんなの笑顔はすごく印象に残っています。きっと、老夫婦に愛されて暮らしているのだなぁと思いました。
彼らが持っている本当の意味での豊かさに心が癒される感覚がありました。彼らの笑顔は一生忘れないと思います。ここに来れたことに感謝しインド最南端の地からこの後北上していきます。
初めてのインド人宅へのお泊り
電車の中で仲良くなったインド人に、家に遊びに来るかと聞かれて泊りに行きました。
街の名前は覚えていません。インド最南端のカーニャクマリの近くであったと思います。
出会ったのは下の写真のインド人の方です。すごく良い印象でしたので、あまり気にせずに信用しました。
車の中で彼に
インド人「怖くないのか?」
と聞かれました。
私「あなたのことを信じているので、怖くないよ」
と言いました。
嬉しそうに笑ってくれました。
この頃は完全に旅勘が働いていて、絶対の自信がありましたので大丈夫だと感じていました。信頼のシンライン なので(笑)。でも、皆さん真似しないように!!
車に乗せられて彼の職場へ行きました。お米を使ったお菓子を製造販売しているとのことでした。食べるかと渡されて少し食べました。
そして海をみに連れて行ってもらいました。魚が売ってました。
魚のカレー味のフライが好きだったので魚を食べたいと思いました。
魚が好きだと言ったら家に行った時に、魚のフライを作ってくれました。
ありがとうーー!
船がいっぱいあり、漁業が盛んであるのがわかります。
家の家族です。皆さん本当良い人でした。
息子さんは、SEになりたいと言っていました。
なんかほんわかした気持ちで、2日ぐらい居候してしまいました。
私のインドの家族な気持ちです。今頃みんなどうしているかなぁとこのブログ書きながら考えていました。
インドの科学技術博物館とカヌー
さて、どの街の話が忘れてしまいましたが、インドの科学技術博物館へ行った時の写真です。それなりに楽しみました。
まずは、重力や遠心力等の学習のためかと思いますが、ボールがグルグルと落ちてくる展示がありました。写真で見てわかるように家族で来ている人たちも多くいました。
音が反響して伝わるような展示もありました。ちょっとレトロな感じで楽しく体験して見ました。
ヴァンデグラフ(Van de Graaff)起電機もありました。実は、高校生の頃に私は自作したことがあります。手をのけっると髪の毛が逆立つやつです。
そして最後に日本の紙の歴史に関しての展示です。
まさかインドで日本の紙に関する展示が観れるとは思わず嬉しかったです。
なぜかこの博物館を見終わって、シンプルな展示の中に色々と楽しめる工夫がしてあり面白いなと感じました。
科学技術の進歩はどこを目指していくのかと考えながら見ていたのですが、見ているうちに、ちょっと心が休まる感じがして良かったです。
そして、その後カヌーで川下りをしました。のんびりと外の変わらない景色を眺めながらゆっくりと。流石にこの景色眺めながらだと、どんどん気持ちはリラックスして眠くなりました(笑)。その後、確か降りてすぐの宿に泊まったと思います。
だいぶ旅にも慣れて来て、最後の夕日の写真のように、ただ今この瞬間が美しく静かで平和な気持ちでした。
初めてのヒンズー語
正直言うとハンピの後にどの場所に行ったか覚えていません。次の都市を目指して移動していたと思うのですが、バスを途中の駅で降りてしまった記憶があリます。途中で間違えて降りたのはまだ良いのですが、全く観光客のいない場所で、英語があまり通じない感じでした。これはまずいと思いながらも暗くなる前にホテルを探しました。1件目のホテルでは、何故か泊まるのを断られて(空いているのに!!)、別の宿ではネパール人と間違えられました。だんだん見た目も焼けて黒くなってきたからかもしれません。なんとか泊まる宿が見つかりひと安心しました。次の日に駅を探すため、英語が通じなそうでしたので、持っていったヒンズー語の会話の本で準備してインド人に話しかけました。
私「駅はどこですか?」
と初めてヒンズー語でしっかりと話しました。
そして、その言葉はなんと通じたのです!!
その親切なインド人は、ヒンズー語で丁寧に道順を説明してくれました。
私「???!あー!」
そこで、気づいたのですが、返事は当然ヒンズー語なので、私には全く意味がわからず結局どこに行けば良いかわかりませんでした(笑)。
仕方がないので、バイクのリキシャーを止めて、手で地図上の駅を指差しなんとかその場所に行ってもらいました。駅までくれば一安心です。
そして、電車で次の都市(覚えていない、、、。)へ向かいました。
今回は写真は特にありません。言語は話す言葉だけ覚えても無意味です。当たり前ですが、相手が言っていることを理解できないと会話が成立しないからです。相手の言葉をちゃんと聞けるようになることが、コミニュケーションではまず大事なのだなと思いました。そんなこともわからない22歳の若かりし頃の私の失敗談でした。
#インド #バックパッカー #ヒンズー語 #コミニュケーション
幸運を呼ぶハンピへ!古代遺跡のある秘境 その2
前回はこのブログを書いている理由を記載しましたが、今回は通常通りのブログを再開します。ハンピの続きですが、写真は宿の子供達とスタッフの子です。一番奥の子はスタッフの子供で、その他はオーナーの子供です。みんな可愛らしい良い子達でした。スタッフの子は、裸足で仕事していました。ここに来るまでにもらったあの大き目のサンダルを彼にあげると言いましたが、断られました。必要ないというのです。彼は足の裏を見せるとものすごく厚い皮になっているのがわかりました。靴がすでに必要ない状況だと理解しました。物の意味や価値は、人によって変わります。私はこのサンダルがなければ、とても歩ける状態ではありませんでした。でもそれを必要としない人もいるのです。固定観念で判断するのは気をつけておく必要があると思いました。
ハンピには川があるので、次に川の向こう側に行きたい思いました。当時の移動方法は何と写真にあるような少し底面が浸水している(笑)手編みのお椀型小舟でした。これに乗って移動です。少し不安でしたが、無事渡ることができました。特に何もない藁葺きのような家と畑が広がっているだけでした。
川をこの船で渡りたかっただけなのですぐに戻りました。この川渡しも来年(つまり18年前です。)にはなくなるそうです。写真のような橋が建設されています。
どこの国も近代化が進んでいく中で古いものは失われ、より便利になっていくのかと思います。でもこの川渡しの不安定感満載の浸水気味の船に乗るのも一興かなと思いました。実際は沈むことなくちゃんと渡れました。今はもう乗れませんが、ギリギリ乗るのが間に合ってよかったです。この橋ができればきっと住民にとっては、とても便利になるので良いことかと思います。インフラの進化は、人々の生活を大きく変えるきっかけになります。世界中で常にこの変化は続いており、人々はそれに合わせてライフスタイルを変え新たな価値が生まれていきます。場合によっては古い仕事が失われ、新たな仕事が生まれます。古いものが失われる寂しさもありますが、この橋にもこの地の人々の夢が詰まっているのかもしれません。
古き良きものを理解しリスペクトした上で、単にノスタルジーに浸るのではなく、未来を作る気持ちも常に持ち続けていきたいと思います。
このブログを始めた理由
今年はやりたい事を19個書き出し、すでに10個やりました。その中の一つがこのブログです。今回は、旅のエピソードではなくて、「なぜこのブログを書いているか?」について話したいと思います。
理由は、昨年からジャムセッションを始め、それがきっかけで旅をしていた頃の感覚を思い出し、当時の経験が誰かの人生に少しでも役立てばと思ったからです。
ジャムセッションで演奏していると音楽以外のことは何も考えていません。その間は、まさに心理的には自由な、自分自身そのものである感覚です。旅をしているとき、ちょうど大学も卒業し、会社にも入っていない、ただの自分自身があるだけでした。就職を目前にして、多くの人はレールの上を歩くことが安心だと感じるかと思います。私はなぜか真逆で、このレールの上を歩き続けることの方が不安と感じました。単に新しい環境に怯えていただけなのかも知れませんが、自分の中には違和感満載で「完全に無理!」と思っていました。その気持ちに正直に生きれたことは良かったと思います。社会的にはドロップアウトしていると思われていたかも知れませんが、インドへ行くと決めてからはそれしか考えていませんでした。何かをすると決めたら、どんな雑音も全く気にならないので決めたことを実行するだけでした。今の時代は、かなり多様な人生の選択がありますが、当時は私以外の同級生達は全員何処かしらには就職していたようです。
旅から帰ってきてから20年経ちこの経験が十分に熟成され、良い具合に発酵し、今だからこそ皆様に呑んでいただけるタイミングであると感じ、伝えたいという気持ちが出て来ました。
従来のシステムが崩壊を迎えた今の時代は、いわゆる「社会」という自分の外の枠組みではなく、確固たる信念を自分の中に持たないと生きづらい時代になったということかと思います。
現代の若い世代の人へこのような状況の中で、何かヒントになればと思ったからです。もちろん年代関係なく読んでいただけるとありがたいですよ(笑)。
自分が若い時に経験した内容を、若い世代に語る時、少し間違えると説教臭い話やめんどくさい説明のようになってしまう場合があるかと思います。相手になにかを伝えるときに、こうした方が良いと直接的な話をするよりも、単に経験した自分の体験を語る事の方が良いと思いました。
いきいきとした体験は、それを読んで響いてくれた人の物語となります。それは、他人の経験でも、読んだ人の心に入り、何かに迷ったり、悩んだり、誰かに背中を押して欲しい時や自分の考えを確認したい時にふと思い出し、その物語は人の行動や思考のヒントなっていきます。
そして、この世界は、互いの人生をシェアすることで、多様な感覚で物事を見えるようになり、少しずつですが良くしていけると信じています。インターネットの発展によりそれが可能な時代になり、私の経験も誰かの心に少しでも届き、何かのヒントになってくれたら嬉しいです。まだまだ未熟な私ですが、セッションやブログ、SNSや直接お話しすることを通じ、皆さんと人生を分かち合うことで自分自身も成長していけることが私の生きる喜びです。これからも、そんな感じでブログ続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。